今日はいつもとは趣向を変えて私の胸の中を明かしてみようと思います。
本ブログ、Sydney Platypusにはそれぞれの担当者が作った「カテゴリー」があります。
私は「Happiness」担当。
なぜ私が「Happiness」にこだわるのかを説明しようと思います。
実はこのブログ以外に、2006年から続けているブログがありますが、タイトルは「超人世理論_読むと幸せになるブログ」。
そして今年8月から始めた全6回にわたる無料オンラインワークショップのタイトルは「不変の幸せを確立する」。
悪い新興宗教なんじゃないか?
高額の壺とかを売りつけられるんじゃないか?
そんな風に思われるかもしれないですね。
セミナーでお代金を頂戴したことはありますが、金額を決めずに各々の思う料金を頂戴しました。
ブログで何かを売ったりもしていませんし、セミナーやワークショップで何かを売ってもいません。
お金にならないことになぜそんなにムキになってこだわり、そこに時間を費やすのか?
それは端的に言えば「幸せになること」が私の人生において、最も尽力したことであり、世界中の誰よりも深く追求したという自信がある、つまりもっとも得意なことだからです。
傷は連鎖します。
ある時期、私はある人に苦しめられていました。
そこまで私を苦しめるとは知らずに私を傷つけたことに、その人が苦しんでいることが分かりました。
その人が傷つき、悲しみ、苦しむことに私は更に傷つきました。
その傷の連鎖を断ち切る方法はあるのだろうか?
苦しさから逃れたい一心で必死で模索し、たどり着いた答えが「幸せになること」でした。
私が幸せになればその人は安堵し、この傷の連鎖が終息する。
そう結論づけた私は心に硬く誓ったのです。
いついかなる時も幸せでいる。
幸せが何か、明確な定義のないこの世界で、「条件、状況と無関係に幸せでいること」などできるのか?
今、改めて自問すると、何の糸口もない状況でとんでもない誓いを立てたものだと呆れますが、あの頃の私にはそれが途方もない、非現実的なプランだとは微塵も思えなかったのです。
たぶん、それが可能なのだという直感があったのだと思います。
12年の歳月をかけて幸せを定義づけ、幸せになる方法を見出し、今はそれをできるだけ多くの方に実践してほしいと願っています。
今この瞬間に、世界中に傷つき悲しみ、苦しんでいる人たちがいます。
終わりの見えない、解決策の分からない辛さから逃れられずにいる人が大勢います。
私はカウンセラーではないので、心を病んだ人を助けることはできないでしょう。
けれども、自分自身の経験から、状況が変えられなくとも考え方を変えることで楽に乗り切れるということを知っています。
今、心を病んでいない人は物事の捉え方を変えるだけで幸福度を上げられることを知っています。
以前は、かつてお互いの傷の連鎖に苦しめられた相手に対し、何の解決策も与えることができなかったことへの罪滅ぼしのような気持ちがあったかもしれません。
でも今はその心残りの気持ちはありません。
ただ、みんなが気楽に生きられたらいいのに…。
素朴にそう思うだけです。
特別な喜びを求め続け、あるいは不幸な出来事が起こらないようにと、もがき苦しみ渇望しながら生きる先進国の人達の悩みが軽減すればいいのに…。
そんな風に感じています。
そんな願いを持って、「Happiness」をテーマにした発信を続けてはいますが、ふと考えてみると実際のところは自分の得意分野、つまり好きなことに情熱を傾けているに過ぎないのかもしれません。
それはゴルフやテニス、カラオケ、読書といった趣味に属するものなのかもしれません。
自分が構築した幸せの定義や、角度を変えた物事の見方を誰かに納得し、認めてもらえることにこの上ない喜びを感じます。
以前は誰かのために、誰かが少しでも楽な気持ちになれることを願い発信していましたが、今は自己満足の要素が大きくなったように思います。
私が「Happiness」にこだわる理由、それは趣味。
他人のために
己自身のために
どちらがより大きなエネルギーを生むのかは分かりません。
ただ、なんとなく自分自身のどこかに偽善を感じたので、胸の内を明かしておきたい気分になりました。