私、元々メモ魔なんでございます。
「はっ」と思ったことや「そうなのよ」と共感するフレーズがあると、とりあえずメモ。
それに関しての自分の考えがあれば思いつくままにメモノートに書き綴る。
こういう作業をしていると、自分の考えのびっしり詰まったメモノートが何冊にもなってしまいますが、あとでそれを見返すと、「あぁ~この頃私こんな風に考えてたんだ~(ヤワだったな笑)」などと、自分の価値観の成長の過程を俯瞰することができるので非常におすすめです。
さて、そんなこんなで先週メモしてたものが、たまたま何かをサーチしていて読んだ、どなたかの書いた記事の中の「多くの人は自由よりも幸福を選んでしまう」という一節だったんですね。
ということで、今週はそれについて語ってみたいと思います♪
旦那によく、頭の中が「レインボー・ユニコーン・フラワー」(←こういう感じの脳内っぽいんだと・・・笑)といじられる、とにかく何でもハッピー思考の傾向がある自分なのでございます。
なので、「自由」「幸福」という2選択あったら・・・
うーん・・・
自由も必要だけど、
どっちかって言ったら
まずは幸福だったら全ていいんじゃないか?
と単純に思ってしまう。
でも、そもそも「自由」と「幸福」が天秤にかけられるってどういうことじゃ?
ナニナニ?一緒に獲得できないわけ?
と、疑問を持って読み解き始めたら・・・
あぁ、、、なるほど。
幸福って自由を奪われた元でも存在するのか。
(まぁ、逆もまた然りだろうが・・・)
どんな制限された状況の中でも幸福なモーメントはあるよねと、だんだん深く理解できてきました。
例えば、いろいろと制限がある中で生活していく環境にあるとして、それでもその中で一緒に歩んでゆく大事な人がいて、美味しいごはんを笑いながら食べて・・・というたくさんのささいな場面はたくさん散りばめられている。
でも、すごい監視社会に暮らしていて、行動は制限され、言いたいことも制限され、自由は完全には与えられていないかもしれない・・・
なーんて言うと、実際今の社会はそんな感じになってしまいつつあり、笑えない話になってしまいます。一見幸せに見える自分たちの日常も「あれ?やばくね?」と気づいてしまいます。
でも人間は健気なもので、そんな中でも幸せを感じ過ごしてゆくし、制限の中でも出来る範囲で幸せを求めるように仕向けられる。果てには、考えてもしゃーないし!と深く考えることを放棄して流されて行ってしまう。
一方、「自由」の獲得。
これは、実は結構大変だ・・・
本当の自由を勝ち取るためには、困難な闘いを強いられるかもしれないし、権利を主張したり、言論や行動の自由を勝ち取るためには、かなり逆風を浴びることもあるし、いろんな圧力もあるだろう。
真実を求めて闘っている弁護士さんが、理不尽な抵抗勢力の圧力を受けたりする様子を見ていると、「自由」や「真実」を追求するという、当たり前のことが、なぜ現代はこんなに難しく闘わなければいけない状況になっているのか?と心痛むしはがゆい思いになる。
でも、完全な自由を手に入れた後は、そこに心からの幸福がついてくるし、全てハッピーな流れになっていくのかも。
すなわち、幸福と自由といづれかを選択しなければならない場面があるとすれば、やはり「自由」がプライオリティーなのだろうな、、、と考え直す自分がいた。
目先の欲求を満たす「幸福」を手にするって、一見間違ってないように見えるけど、そこに「自由」を手放しているなら・・・やはり自分の選択を考え直す必要があるように感じる。
こういう話題になると、よく登場するのがディストピア小説と言われるものだったりして、代表的なもののひとつが、ジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」や「動物農場」など。
最近読み終えた伊坂幸太郎さんの「魔王」も関連するテーマが含まれていて良かったな。おすすめです。
今この時代の流れの中で、ぜひ読んでおきたい作品だと思う。
「幸福」と「自由」。
これって、割と平和に日々を過ごしている私たちにとって、あまり考える機会がないことなんだよな~。なんて幸せ・・・というかのほほーんと過ごしてるんでしょうね?笑
でもまあ、そんなことを考えさせないような・・・
そんな社会に仕組まれているとしたら???
やっぱりちょっと、一度立ち止まって、
自分なりに哲学してみる時なのかもしれません♪