カウラと日本:負の遺産

こんにちは、ひで蔵です。

今回はシリアスなテーマを語っていきます…。

 

NSW州の田舎町、カウラと日本の関係。それは、負の遺産から始まった。

 

Cowra Breakout という事件である。

 

第二次世界大戦中、この町に捕虜収容所が造られ、捕虜になったイタリア兵、日本兵が収容されていたのだが、1944年8月に、日本兵捕虜が大脱走を企てた。

脱走、といっても計画的なものではなく、もし運良く脱走できたとしても、どこへ行くあてもない。だいたい、この町からシドニーまでは400キロほどあるのだから。

なので、ほぼ自殺行為である。

私は歴史好きなので、この事件については日本人、オーストラリア人著者によるいくつかの本を読んだが、

 

「わかるようで、わからない」というのが感想。

 

分からないなりに、これぞ日本人のサイキ、特質といったものがこの事件に凝縮されているのは確かだ。

そしてちょっとおそろしいのが、ここで起きた「思考プロセス」は、現在でもそれほど、いやほとんど変わっていないような気がする。

それがいいのか悪いのかは一概にいえないと思うけど、特に昨今の不安な世の中をみるにつけ、我々は過去から学んでいるのかな、と漠然とした不安を感じてしまう。

そして、この事件について知っている日本人はごく少数。私も歴史を専攻していたくせに、このことを知ったのはオーストラリアに来てからだった。

 

その跡地にまた訪れた。今でもおそらく当時とはほとんど変わらず、人家などは建っていない。収容所の建物の礎石と思しきものがまだあちこちに散在しているが、それ以外は原っぱ。春なので雑草だってみずみずしい。

 

以前収容所を囲んでいるフェンスがあった場所は草が取り除かれていて、八角形の外周が今でも分かる。そこをずっと歩いてみた。この中に入っていた人々はどのような生活を送っていたのだろう、と想像しながら。外周には、いくつかの掲示板があり、収容所の生活や事件についての説明が書かれていた。

最後に、日本兵が脱走を図った際に走った、ブロードウェイという収容所の真ん中を貫く道を、正門跡に向かって走ってみた。

 

まわりに建物がないので近く見えた場所が、意外と遠い。息を切らして走りながら、ここを走っているうちに数多くの捕虜が機関銃でなぎ倒されたのだろうな、と思った。

 

そして忘れてはいけないのは、ここを守っていたオーストラリア兵も4名死亡しているという点だ。闇夜の中、押し寄せてくる無数の日本兵捕虜に対し、たとえ銃を持っているとはいえ多勢に無勢だった彼らの恐怖、絶望感はいかばかりだったのだろう?

 

ここから少し離れた場所にはこの事件で命を落とした捕虜を含む日本人墓地がある。

季節柄、桜やりんごの花が満開で、きれいに芝生が刈られた墓地に、同じサイズの墓標が列をなしている。整然とされているのがかえって無常観を出しているような気がした。

 

捕虜の多くは故郷の家族に捕虜になったのを知られるのを恐れていたため、偽名で通したという。なので、ここに彫られている名前の多くは本人の名前ではない。月並みだけど、これでは浮かばれないよな…と思った。

そろそろ沈む太陽に当てられて透き通った花びらを目に焼き付け、日本人墓地を後にした。

 

私がシドニーにいる限り、カウラには何度も訪れるだろうという予感を持ちながら。

 

というわけで、ちょっと重い内容になってしまいましたが、ご安心ください。次回はこの負の遺産をどう乗り越え、実を結んだか、という内容を書きますので!